死 死についての聖書の節 死が怖いのですが、どうしたらいいですか? 神が共におられるなら、恐れる必要はありません。聖書の、詩編第23章4節に記されてあります。 「たといわたしは死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられ、あなたのむちと、あなたの杖が、わたしを慰めてくれるからです。」 閲覧:聖書は死について何と言っていますか? 閲覧:他の聖書の質問 イエスは、私たちを死と悪魔から解放するために亡くなりました。聖書の、ヘブル人への手紙第2章14~15節に記されてあります。 「私たちは血肉の人間です。それゆえ、イエスは私たちの一人となられました。イエスは、死を支配する力を持つ悪魔を滅ぼすために亡くなりました。しかし、毎日死の恐怖の中で生きている私たち皆を救うためにも、亡くなりました。」 死ぬとどうなりますか? 体は塵となり、命の息吹は神のもとに帰ります。聖書の、伝道の書第12章7節に記されてあります。 「こうして、私たちの肉体は土に帰り、命を与える息は神に帰る。」 死んだらどこに行くのですか? 善良な人々は死後天国に行くのですか? すぐには行きません。聖書には死者は地で眠っていると書かれています。聖書の、使徒行伝第 2 章 29、34 節に記されています。 「兄弟たちよ、族長ダビデについて、はっきり言っておく。彼は死んで葬られ、その墓は今も私たちのところにある。…ダビデは天に昇らなかったからである…」 死ぬのはどんな感じでしょうか? イエスは死は眠りにつくようなものだと教えました。聖書の、ヨハネによる福音書第 11 章 11-14 節に記されています。 「イエスはこれらのことを話してから、彼らに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を起こしに行きましょう。』すると、弟子たちは言った。『主よ、眠っているなら、彼はよくなるでしょう。』しかし、イエスは彼の死について語られたが、彼らはイエスが眠って休むことについて語っていると思った。するとイエスは彼らにはっきりと言われた、「ラザロは死んだ。」 死者は私たちを見ているのでしょうか。いいえ、死者は地上で何が起こっているのか知りません。聖書の、伝道者の書第9章5-6、10節に記されてあります。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや報いはない。彼らの記憶は忘れ去られるからである。彼らの愛も、憎しみも、ねたみも、今は消えうせ、日の下に行われるすべてのことに、彼らはもはやあずかることはない。…何事もあなたの手のなすべきことを、力を込めてしなさい。あなたが行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。」魂は存在するのでしょうか。はい、それは私たちの体と神の息吹が合わさってできています。私たちには魂があるのではなく、私たちが魂なのです。聖書の、創世記第2章7節に記されてあります。 「主なる神は土のちりで人を造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」 魂は不滅ではありません。私たちが生きる前には存在せず、死んだ後にも存在しません。聖書の、エゼキエル書第 18 章 20 節に記されています。 「罪を犯す魂は死ぬ。」 サタンの最初の嘘は何でしたか? 聖書の、創世記第 3 章 4 節に記されています。 「すると、蛇は女に言った。『あなたは決して死ぬことはありません。』」 神だけが不死を持っています。聖書の、テモテへの第一の手紙第 6 章 15-16 節に記されています。 「神は、ご自分の定められた時に、それを現される。彼は祝福された唯一の権力者、王の王、主の主であり、ただひとり不死を持ち、近づくことのできない光の中に住まわれる。人はだれも見たことがなく、見ることもできない。この方に誉れと永遠の力があらんことを。アーメン。」死は終わりである必要はありません!聖書のヨハネによる福音書第11章25節に記されています。「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。』」神は私たちを死の力から救うと約束しています。聖書のホセア書第13章14節に記されています。「わたしは彼らを陰府の力から贖い出し、死から救い出す…」私は愛する人たちにまた会えるでしょうか?キリストにある彼らは、イエスの再臨の復活の時に墓から目覚めるでしょう。聖書の、テサロニケ人への第一の手紙第4章13~18節に記されてあります。「兄弟たちよ。眠りについた人たちのことを、あなたがたが知らないでいてほしくありません。また、ほかの望みのない人々のように悲しんでもほしくありません。私たちは、イエスが死んで復活されたと信じているのですから、同じように、神はイエスにあって眠りについた人たちをも、イエスといっしょに導き入れてくださいます。主の言葉によってこのことをあなたがたに言います。主が来られる時まで生き残っている私たちが、眠りについた人たちより先になることは決してありません。主御自身が、合図の号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、天から下って来られるからです。すると、キリストにあって死んだ人たちが、まず最初によみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らとともに雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになります。ですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」何物も、死でさえも、神の愛から私たちを引き離すことはできません。聖書の、ローマ人への手紙第8章38-39節に記されてあります。「私はこう確信しています。死も、命も、御使いも、支配する者も、現在のものも、後に来るものも、高い所も、深い所も、そのほかのどんな造られたものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」新しい地球にはもう死はありません。聖書の、黙示録第21章4節に記されてあります。「神は彼らの目から涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや、死はなく、悲しみも叫びもなく、痛みももうない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」キリストにあって、私たちは死に打ち勝つのです!聖書の、コリント人への第一の手紙第15章51-54節に記されてあります。「見よ、私はあなた方に奥義を告げます。私たちはみな眠りにつくのではなく、終わりのラッパの響きとともに、一瞬のうちに、またたきのうちに、みな変えられてしまうのです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちも変えられるのです。この朽ちるべきものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着るからです。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着ると、次のように書いてある言葉が実現します。「死は勝利にのまれた。」 「死よ、おまえのとげはどこにあるのか。黄泉よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、わたしたちの主イエス・キリストによって勝利を与えてくださった神に感謝します。」

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