*聖書を学ぶ:* _ローマ人への手紙 8:1 – ですから、今は、キリスト・イエスにあって、肉に従わず、御霊に従って歩んでいる人たちには、罪に定められることはありません。_ *罪に定められない* 人を罪に定めるとはどういうことでしょうか。罪に定めるとは、その人の行いのゆえに、その人に裁きの判決を下すことを意味します。人がこの世で行うすべてのことには、その裁きという結末があります。罪の宣告は、ある基準を満たさないために下されます。たとえば、病気の終わりは死です。イエスは、ラザロの病気は死で終わらないと言われました*_(ヨハネによる福音書 11:4)_* これは、人が病気になると、しばしばその人生に死の宣告が下されることを意味します。しかし、キリストとの出会いは義認につながるので、ラザロの病気は神の栄光となりました。死の宣告と罪の宣告は、キリストのゆえにラザロを捕らえる力を失いました。ローマ人への手紙第6章23節では、罪の報酬は死であると聖書は述べています。しかし、あなたはイエス・キリストを主であり救い主として受け入れたことを忘れないでください。あなたは贖いの証を受け入れました。これは、クリスチャンであるあなたにとって、罪のゆえに死の宣告の下にはもうおらず、キリストへの信仰を通して義と正義を受け取ったことを意味します。あなたは今、義のゆえに生きているのです。仕事がなく、給料がなかなか支払われず、保証人がお金を出してくれず、契約が打ち切られたとき、あなたが背負っている宣告は貧困の宣告です。しかし、あなたがキリストの中にいるので、キリストはあなたを豊かにするために貧しくなられました。キリストの貧困を通して、あなたは富を得るのに正当化されます。あなたは新しく生まれ変わったときから、一度も貧しくありませんでした。宣告を超えるということは、イエス・キリストの人格における神の霊の証しをつかむことを意味します。イエスの完成された働きを理解して信じるとき、あなたはもはや宣告の対象ではありません。肉に従って歩むということは、あなたの中に死の宣告が絶えずあることを意味します。*_ローマ人への手紙 7:18 – 私は、自分のうちに、つまり自分の肉のうちに、善なるものが住んでいないことを知っているからです。_* 聖書は、肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩むようにと教えています。あなたの肉には善なるものが何もないのです。肉に従って歩むということは、感覚に従って行動することです。これは、神から与えられた能力を奪い、あなたを非難することになります。あなたは、霊がキリストにおいて証言したことに従って歩むべきです。霊に従って歩むということは、神の証言をつかむことを意味します。霊の心を理解することは、自分を非難したり、資格を失ったり、非難したりしない大胆さを与えてくれます。あなたは、肉に従って歩いているというだけで、非難を受けている可能性があります。神の証言に従って歩む人は誰も、非難されているとは感じません。 *神に栄光あれ!!!* *さらに学ぶ:* コリントの信徒への手紙二 5:17 ローマの信徒への手紙 5:1 *金言:* 仕事がないからといって、自分を貧困に定めてはいけません。キリストの貧しさによって、あなたがたは富を得る義と認められています。自分の肉にある罪のために、自分を死に定めてはいけません。イエスの死と復活によって、あなたがたは義と認められています。非難、自己批判、資格喪失のうちに歩む者は皆、肉において歩んでいるためにそうしているのです。神が霊によってあなたのためにしてくださったことに目を開き、非難を超えて昇ってください。 *祈り:* 私は家族のために完全に正当化されています。私は自分のキャリアのために正当化されています。イエスの名によって、死刑判決は私の中にはありません。アーメン。
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